中村富十郎 (5代目) (NAKAMURA Tomijuro V)
五代目 中村富十郎(ごだいめ なかむら とみじゅうろう、1929年(昭和4年)6月4日 -)は、歌舞伎役者。
屋号は天王寺屋 (歌舞伎)。
定紋は鷹の羽八ツ羽矢車。
本名は渡 邉一(わたなべ はじめ)。
重要無形文化財保持者(人間国宝)。
父は中村富十郎 (4代目)、母は日本舞踊家元の吾妻徳穂。
略歴
1943年(昭和18年)8月、大阪中座「鏡獅子」の胡蝶で四代目坂東鶴之助を名乗り初舞台。
1964年(昭和39年)4月、歌舞伎座『頼朝の死』の畠山重保ほかで六代目市村竹之丞を襲名。
1972年(昭和47年)9月、歌舞伎座『逆櫓』の樋口と『娘道成寺』で五代目中村富十郎を襲名。
受賞歴
1960年(昭和35年)
- テアトロン賞
1965年(昭和40年)
- テアトロン賞
1985年(昭和60年)
- 眞山青果賞大賞
1986年(昭和61年)
- 日本芸術院賞
1990年(平成2年)
- 紫綬褒章受賞
1994年(平成6年)
- 松尾芸能賞大賞、無形重要文化財(人間国宝)に認定
1996年(平成8年)
- 日本芸術院会員
2000年(平成12年)
- 眞山青果賞大賞
2008年(平成20年)
- 文化功労者
逸話
六代目竹之丞襲名の際、竹之丞の名跡は市村羽左衛門の幼名とされ、市村羽左衛門家にとっては由緒ある名跡である。
この襲名には、師である武智鉄二の意向が強く働いていたと言われるが、襲名披露の口上の席で座頭である市村羽左衛門 (17代目)より「本来ならば、竹之丞の名跡を継ぐべき人ではない」との強烈な批判ともとれる発言をされるなど、橘屋宗家との確執が浮き彫りになった。
1996年に、33歳年下の元女優(33歳)と結婚した。
1999年(平成11年)に長男・大が、2003年(平成15年)年には長女・愛子が生れ、特に後者は富十郎74歳の子供であるところから大きな話題にもなった。
長男の大は2001年(平成13年)に中村大を名乗り初舞台を踏み、2005年(平成17年)11月に初代中村鷹之資(なかむら たかのすけ)を襲名した。
「豆天王寺屋」と呼ばれている鷹之資には20歳になった時に、富十郎の名跡を襲名させることを公言しているが、その襲名披露狂言には『娘道成寺』で競演するのが近頃の富十郎の目標であると言われている。
楽屋内・ファンからは、この親子での『連獅子』を早く見たいとの要望も多く寄せられているという。
芸風
当代随一の立方、踊りの名手として知られる。
若年時上方を中心に活躍した際には、坂田藤十郎 (4代目)とともに、その美貌から「扇鶴コンビ」と呼ばれ人気を博した。
この時期には武智歌舞伎にも参加し、ここで積極的に実験的な手法に触れ、古典の品格や解釈を学んだことは大きい。
加えて、終戦後母とともにアヅマ・カブキとして日本舞踊の欧米公演を行ったことは、富十郎自身が語るように、その芸に有形無形の影響を与えている。
一方で東京に出てからは、十五代目羽左衛門系の颯爽とした芸系とともに、尾上松緑 (2代目)に師事して尾上菊五郎 (6代目)の写実的な世話物の系統、また松緑が得意とした荒事や舞踏にいたるまで広く学んだ。
平成に入ってからは中村雀右衛門 (4代目)との名コンビを謳われて「二人椀久」などの傑作を残している。
当り役は数多いが、特に初代が初演した『京鹿子娘道成寺』にはお家芸としての思い入れがあるらしく、五代目襲名の興行にも出している。
その芸のよさについては、ほとんど当代の役者を褒めなかった池波正太郎が絶賛していたことでも一端をうかがいえよう。